古き良き時代の女

前回には一度も出てこなかったから、どこかの団体から抗議でも受けて使用を自粛していたのかと思ったら、今回は、また出てきたので、おや、と驚いたのだった。『プライド』というTV番組のことである。「古き良き時代の女」というのは、劇中木村拓哉扮するハルが、竹内結子扮するあきを指して言う言葉で、このドラマのキイワードとなっている。

たしかにこんな時代では、昔を懐かしむ気持ちも分からないでもない。時代遅れに見えても、古いものの中にいいものはたくさんある。しかし、「古い」と「良い」を、そのまま結びつける短絡さには違和感を覚える。古いものの中にある嫌なもの、醜いものに目をつむり、「過去」を今を否定する道具に使うやり方はいただけない。

携帯電話が普及して、昔なら成立した「すれ違い」という、メロドラマの常套手段も使いにくかろうと思われる時代に、堂々とすれ違いをやってみせるアナクロニズムには、確信犯的な小気味よさがあって、小首を傾げながらも楽しみに毎回見ているのだが、今夜の「あき」には、とまどってしまった。

二年前に自分を残して海外に飛び立ったきり、何の連絡もしてこない男を約束の場所でいつまでも待っているあきと、そんなあきに周囲の女にないもの見つけ、恋人が戻るまでの間の擬似恋愛関係を持ち出すハル。ゲーム感覚ではじめた恋が本気になったところまでが前回。昔の彼が帰国して、二人のこれからはどうなるのか、というところで、今回は終わったのだが。

二年間、連絡もせずに放っておきながら、帰国したとたん会おうという男の身勝手さに対して、女の見せる優柔不断な態度が理解できなかった。なるほど、これが、脚本家の言う「古き良き時代の女」ということか。「良い」というのは、いつも「誰にとって」かという問いを含んでいる。この場合、「良い」というのは男にとって(都合が)「良い」ということである。しかし、男にとって都合の「いい」女が、本当に「いい」女かどうかは疑問だ。

アーウィン・ショーの短編に、二ヶ月間恋人をパリに残してエジプトに行っていた男が、帰ってくるなり呼び出した女に、新しい男を紹介され、その心変わりをなじる話がある。その時の女の言葉が、今も心に残っている。少し長くなるが、引用しよう。常盤新平の名訳である。

「なぜってあなたのような人が厭になったから」クリスティナははっきりとそう言った。「新聞社の特派員やパイロットや前途有望な少壮政治家が厭になったの。いつもどこかに出かけていって、革命の取材をしたり条約を結んだり戦争で死んだりする、才能豊かな若い男性が厭になったの。飛行機が離陸するまで泣いてはいけないというのが厭になったの。あんまりお手軽なのが厭になったの。(中略)愛されるよりも愛することが厭になったの。これであなたの質問の答えになって?」

ずいぶん以前に読んだ小説だが、今でも覚えているのは、このクリスティナという女性の気持ちがよく分かったからだ。男は、こうはっきりと女に言われて、どう思ったろうか。少なくとも、この女性を見誤っていた自分の愚かさを責めたにちがいない。こういう女こそ「いい女」というのではないだろうか。

ドラマはこれから佳境に入る。「古き良き時代」というのが、わたしたちに本当にあるなら、ぜひ見せてもらいたいものだ。ショーの描いた30年代から50年代のパリやニュー・ヨークに負けない「古き良き時代」を。

2004-02-24 00:30:01 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

炭酸水

ゆっくり眠った日曜の朝、遅めの朝食をとり、新聞二紙を時間をかけて読んだ。日曜日の新聞には書評が載る。今週の書評欄には読んでみたい本が多かった。忘れぬうちにと、手帳にメモを取った。

ニケに誘われて二階に上がると、南の窓にあたたかな日が差していた。窓の外は春一番が吹き荒れているというのに、部屋の中に差し込む光はすっかり春のそれだ。窓辺に置かれたカウチにもたれて、本を読んでいると、ニケが膝に乗ってきた。右手で、本を支え、左手で顎を掻いてやる。喉を鳴らす声を聞いていると、仕事など早くリタイアして、毎日こうしていたいと、思ってしまうのだった。

町工場で働く男たちのことを書いた短編は、久し振りに小説を読む悦びを堪能させてくれた。さすがに一冊を読み切ると、日も西に移って寒くなった。用があって街に出かけるついでに昼食を取ることにした。

最近開店したばかりのイタリア風レストランだ。三時近かったが、店はほぼ満席だった。ランチメニュウ中心ということで、それに従うことにした。ジェノベーゼは、松の実のないのが不満、ローマ風の薄焼きピザはアンチョビが足らない。気に入ったのは、炭酸水だった。

サラダバーやヴァイキング形式ははっきり言って嫌いなのだが、そのメニュウしかなければ仕方がない。飲み物を取りに行って、機械の前に立つとコーラやジンジャーエルに混じって炭酸水とあるのが目に着いた。まさかソーダ水じゃないだろうなと、半信半疑でグラスに入れて席に戻った。一口飲んでみると、正真正銘のアグアコンガス。ようやく日本でもガス入りの水が商品の仲間入りをしたかと、ちょっとうれしくなった。ワインを置いてない店で、料理といっしょに飲むならこれが一番。ただ、日本では水に金を払うことにはまだまだ抵抗がある。セットの中に入っているなら問題はない。有り難く頂戴することにした。これが根付くといいのだが。気に入った物は、すぐに目の前から消えてゆく宿命を負っている。炭酸水はどうだろうか。

2004-02-15 23:40:48 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

それからの日々

男は定年二年前に社内の勢力争いに敗れリストラの対象者となり会社を馘首になる。妻は、会社人間の男に愛想を尽かし離婚を考えているが、今は少し売れはじめてきたクラフト作家として個展の準備に忙しい。息子は転職を繰り返し、娘は年の離れた三人の子持ちの男とつきあっているらしい。少し痴呆が始まりかけている父親は一人別の家で暮らしている。どこにでもある中流家庭の姿である。

別に突然馘首にならなくとも、会社一筋に生きてきた男が、明日から会社に行かなくてもいいとなったら、この男のように途方に暮れるだろう。しかし、慌てているのは男だけである。家族は、とうに、男なしで生きている。男は家庭の中に居場所がない。公園のベンチに一日座っているような生活は耐えられないと言っていた男も、半月もしないうちにベンチに座ってぼんやりしている自分を発見する。

妻が夫に対して言う言葉が、いちいち、耳にいたい。身につまされる。そんな思いで、ドラマを見ていた男がどれほどいただろう。おそらく、どの家庭でも似たり寄ったりの会話がなされているにちがいない。曰く、自分のことしか考えていない。家事をしない。人を裁くような言い方をする。自分だけが正しいと思っている。感情がない。あなたから会社をとったら何もない。どれも、相手から見ればそうなのだろうが、男は自分では意識していない。

企業戦士という言葉があるように、会社勤めの男は外で戦っているつもりなのだ。男の無意識はそのための自分を作ってきた。今さら非難されても、どうしようもない。ただ、家庭といういわば非戦地帯にあっては、男はそれまでの自分を護ってきた鎧が場違いであることにも気づかされる。妻の言いなりになって、掃除をするのもごみを出すのも、戦うことのできない戦士であるという弱みがあるからだ。

病気の母親の介護をしながらクラフト教室を運営しているという男が、男の前に現れる。妻が毎日通うクラフト教室の主宰者である。家庭をかえりみない夫と仕事と家事を両立させている男とを妻は比較する。夫は男でしかない。クラフト作家は人間である。

息子は、「お父さんはもっと威張っていたらいい」というが、物忘れの激しくなった父親は、事態の変化を受け入れるように息子を諭す。単発ドラマとして締めくくりをつけねばならないからだろうが、結末は予定調和的で、山田太一のドラマとしては面白味に欠ける。結論から言えば、男は、家庭をかえりみるようになり、人間として再生していくようだ。

企業戦士として人間性を搾取されていた男が退職をきっかけに、人間性を取り戻し、再生する物語としてみるなら、ハッピーエンドだろう。が、男が、離婚話を告げる妻に対して言う「こんな酷い目に遭うなんて、俺がいったい何をしたというんだ」という思いは、宙ぶらりんなまま残る。

監獄に対して塀の外を娑婆というように、現実は娑婆である。妻という役割を引き受けることで女は自己実現のできる娑婆を横目に見ながら家庭という檻に閉じこめられていると、多くの主婦が感じているなら、男が恨まれるには理由がある。男はまちがいなく娑婆に生きているからだ。男の感じる苦労や辛さ、哀しみというのは、みな「娑婆苦」である。食うには困らなくても、自由に思ったことができない家庭を地獄にしてしまっている責めが、男には負わされる。

家庭が、女にとって地獄でなく、男にとってだけでなく女にとっても居心地のいいオアシスのような場所になるためには誰が何をどうすればいいのだろう。そもそも、そんな家庭が存在するのだろうか。ありもしないユートピアを求めて虚しく離婚を繰り返すアメリカ型社会がいいとも思えないが、その懲りないところにこそドラマがあるような気がするのだが。

2004-02-01 12:38:38 | Permalink | コメント(6) | Trackback(0)





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