夏仕舞

梅雨の合間か、朝の雨が上がったら、急に夏空が帰ってきた。
現金なもので、いくら暑くても、すっきりした青空にぎらぎらと照りつける太陽を見ると、なんだか元気が出てくるから不思議だ。
綿を細かくちぎって並べたような積み雲が、海の上に細長く連なっているのを見ると、もうすぐそこまで来ている夏が待ち遠しくなる。

景気は回復してきているというのが、政府見解らしいが、いっこうに実感が伴わないのはどうしたことだろうか。なんだか、不景気きわまりない仕事ばかりが回ってきて、気分的には梅雨前線停滞中というところなので、天気が晴れるのはそれだけでもありがたい。

人間の心理なんて、天気ひとつでかなり左右されるものだ。まあ、すべての人がそうだとは思わないが、少なくとも、自分に関してはかなり相関性があるといえる。床屋の若旦那も、きっとそうにちがいない。

駐車場に車を止めたら、「お帰りなして」と、声がかかった。
誰かと思えば、床屋の若旦那。
「暑いねえ。」と言うので、
「何を言っている。一日エアコンのかかったところで仕事をしているくせに。」と言うと、
「いや、体がなまるので、チャリンコで走ってきたけど、ちょっと走っただけで、もう太股がぱんぱん。」と、足を叩いてみせる。

縁台のあった時代とちがい、あまり近所の人と話す機会がない。朝出かけて夕方に帰るので、隣の子くらいしか、顔を合わすことはない。平日は、近くの人がけっこう往き来するのだが、休日は、どの家も買い物は郊外型の店に出かけるのか、ひっそりとした町になる。

梅雨の晴れ間だ。床屋の若旦那も自転車に乗ってご近所を一回りしたくなろうというもの。ふと、一昔前の町の風景を思い出した。仕事の汗を一番風呂で流したステテコ姿のおじさんたちが、軒下にさりげなく置かれた縁台に腰かけ、将棋をしたり、今年の祭りの相談をしたり、夏の宵には、いつも誰かの影が見えた。

エアコンがどの家にも入ることで、通りから人影が消え、打ち水の風習も影をひそめた。何かと風通しの悪さを感じることの多い世の中だ。たまには、エアコンのスイッチを入れず、窓を開け、風を通すのもいいだろう。葦簀を立てかけ、すだれを吊り、障子、襖を外してしまおう。耳を澄ませば、昔のように通りで話す声も聞こえてくるだろう。そんなことを考えていると隣家からいつもの音。TVのことをすっかり忘れていたのだった。

2004-06-30 18:10:51 | Permalink | コメント(1) | Trackback(0)

メタ読書

自分でも何がなんだか分からない狂騒にとらわれて暴れ回るニケに、一夜のうちに三度も四度も寝ているところをたたき起こされて、睡眠不足と、それから逃れるために飲む寝酒の宿酔とで、ふらふらになっていたここ数日間であった。

どうやら、その狂騒的週間も過ぎたらしく、自分でも寝たらなかったのか、ニケは一日中眠っている始末。昨夜は午前四時にそっと起こしに来たが、それまでのことを思えば、どうということはない。五時間連続して寝られれば、頭はすっきりしたもの。おかげで、仕事もはかどれば、本も読める。

どういう訳か、映画でもスポーツでもそうだが、そのもの自体よりも、それについて書かれた本というのが好きだ。それは、当然本についても言える。小説そのものより、その小説をどう読んだかということについて書かれた本の方に魅力を感じる。妙な癖だと自分でも思うが、仕方がない。

そんなわけで、最近は読書についての本を読んでいる。福田和也の『贅沢な読書』、辻原登の『熱い読書 冷たい読書』、木田元の『猿飛佐助からハイデガーへ』の三冊を立て続けに読んだ。どれも、それなりにおもしろい。しかし、福田和也は作者その人があまり好きではない。ヘミングウェイについて書かれた冒頭の一編は、楽しんで読んだが、だんだんおもしろくなくなる。竜頭蛇尾というのはこういう類のことをいうのかも知れない。

木田元先生は、前々からの御贔屓。山田風太郎や笠井潔など、思わぬところで趣味が合うのでついつい専門の哲学書まで読んでしまった。この人の『反哲学史』は傑作である。今回の本は、読書にからめて半生を語る自伝的な一冊。型破りな木田元先生ならではの武勇伝や酒を通じての交友録が楽しい。何カ国語も外国語を読むことができる特技を持つ。それが、みんな独学というのだから、一種の天才だろう。

辻原登の本については、別の場所に書いたので、ここでは詳しくは触れないが、この人の書くものなら読んでみたいと思わされる数少ない日本の作家の一人である。あえて、難を言うなら上手すぎるというところだろうか。何か書こうと思ってもほめるしかないのでは、あまりに藝がなさすぎる。そんな気にさせられる文章である。おそらく、書いては削り、書いては削りして、作り上げた文章なのだろう。自分でも書いているが、よく朗読をするらしい。語りの巧さはそのせいか。朗読に耐える文章というのが名文と呼ばれる条件だろうが、近頃とんとお目にかからなくなった。

2004-06-22 23:27:19 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

FAQ

昨夜のことだ。前々から不具合の多かったウィルス検索ソフトをアンインストールしたところ、再起動しなくなってしまった。熱暴走というほどではないにしても度重なる強制終了で、ノートパソコンの本体はかなり熱くなっていた。一晩おいたら、もう一度やってみようと思って、そのまま眠った。

一夜明けた今朝。早速トライするも、やはり状態は変わらない。コンピュータにはさほど詳しいわけではない。電話をかけながら、友人にサポートしてもらう知人がいたが、電話代はともかく、そんなに人に迷惑をかけるわけにもいかない。それに、なによりコンピュータに万能な知り合いがいない。

こんな時に頼りになるのが、windows FAQである。一度、フォントが消えかけたときにネット上を探し回って、やっと探し当てた一押しのサイトだ。このフォントが消えるというトラブルに出会う人はかなりいて、これまでにも何人もの人に対処法を教えて喜ばれた。あまり人助けをするタイプではないので、人の役に立つ喜びを知るめったにない機会として、いつも聞き耳を立てている。

今回も関係する会社のサポートセンターや、トラブルシューティングはのぞいてみたけど、ぴったりくるものがない。こういうときは、掲示板が頼りである。早速、情況を細かに説明したスレッドを立てた。しばらくすると「ハンノキ」という人から親切な指示が届いた。不慣れな者の質問にも、ていねいに答えてくれる。しかし、教えてくれる方法をすべてやってみるのだが、事態は好転しない。

結局、昼ご飯の間をのぞいて、一日コンピュータの前に座っていたが、最早再インストールしかないかという結論に達しかけた。なかばあきらめながら、夕食をとった。バックアップをとっていなかったので、再インストールをすると、多くのデータが失われてしまうことになる。夕食後、憂鬱な気持ちで、FAQの掲示板を開くと、なんと三人の人から助言が届いていた。

その多くが、再インストールにはまだ早い。これこれを試みられたしという文面である。早速、片っ端から試してみた。結果からいえば、そのうちのひとつが見事ヒット。デスクトップにニケの写真が浮かび上がったときには、飛び上がらんばかりに喜んだ。

それにしても、何の得になるわけでもないことに、多くの人から親身なアドバイスが届くことに、いつも感銘を受ける。近頃、これほど人の善意を身近に感じることはないからだ。コンピュータやインターネットのもたらす弊害を言いつのる論調が勢いを増している。しかし、それはあまりにも一方的な意見というものではないだろうか。困ったときにはインターネットという私のようなものもいる。また、それに答えてくれる善意の他者も大勢いることをあらためて言っておきたい。

どんなものにも表と裏がある。匿名であることをいいことに、弱い立場にいる人に追い打ちをかけるメールを送る者もいるが、困っている人に、自分の知識を役立てようと一日費やしてくれる人もまたいるということだ。所詮、コンピュータやインターネットは道具に過ぎない。それをどう使っていくかは、人間の問題になる。コンピュータのトラブルで一日棒にふったと思ったが、最後は人の善意に触れて、気持ちのよい一日を終えることができた。それにしても「ハンノキ」とは。『ゲド戦記』の手の技のネットワークを思わないわけにはいかなかった。

2004-06-20 23:39:36 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

ゲド戦記外伝

梅雨の合間の日曜日。北向きの窓からはよく晴れた空が見えるが、部屋の中は落ち着いた光がやすらいでいる。いつもなら、隣家の老婆のTVの音が閉め切った硝子戸越しにも響いてきて、せっかくの静かな休日気分が台無しになるのが常だが、今日は、来客でもあるのだろう、めずらしくTVの音がしない。

ゆっくり読んでいくはずだった、『ゲド戦記外伝』だが、読みはじめると、途中で切るのはむずかしい。特に、休日ともなれば、食事の時をのぞいて、だれに遠慮もなく書斎にこもりっきりになれるのだからなおさらである。しかも、『ゲド戦記』を読み出すと、一冊読み終えたところで、前の作品を読み返したくなるという悪い癖がある。今回も『外伝』を、読み終えてから『アースシーの風』を読み出し、それも読んでしまうと、第一巻にもどって『影との戦い』を読みはじめるという始末だ。

五時になると鳴る防災放送を聞きながら、結局いつものように終日部屋にこもりっきりで読書という代りばえのしない一日になってしまったなあ、とひとり、苦笑いした。それから、家中の掃除をはじめた。たまの休日である。ふだんは何かと忙しくてできない掃除やかたづけをするにはいい機会だと思っても、ついつい先延ばしにして本を読んでしまう。こちらの方も、じっくり読むにはやはり休日を待つしかないからだ。

しかし、『ゲド』を読むと、なにか働かなくてはならない気がしてくる。それも、日常的な身の回りのこまごまとした仕事をだ。あの大賢人のゲドが、畑の水やりをしたり、山羊の世話をしたりしているのだ。小人が閑居していながら、何も動かず本ばかり読んでいていいのかという気がしてくるのである。

ル=グウィンは、初めの頃『ゲド戦記』で行なわれる魔法について、芸術家の行なう芸術活動についての隠喩であるという意味のことを書いていたそうだ。作品世界が広がるにつれて、そんなに単純な比喩で語れるようなものでなくなってきているのは確かだが、多島海に浮かぶ多くの島々に散らばる天分を持った若者が集うというだけでも、ローク島の学院が高度に知的な作業を行うアカデミックな専門家集団であることはまちがいのないところだろう。

『ゲド戦記外伝』所収の『カワウソ』は、三部作終了後新たに稿を起こした『ゲド戦記最後の書−帰還』と、第5巻『アースシーの風』をつなぐものと考えられる短編で、ローク島の学院がいかにして始まったかが書かれている。そこに集められるのは、確かに天分、才能のある者たちだが、どこか、ヘッセの『ガラス玉演戯』に出てくるカスターリエンを思わせる、芸術家にして民衆の指導者という選良たちの集団である後のロークの学院とはちがい、老若男女を問わぬ、海賊や諸候に従うことを欲しない「手のわざ」を持つ者たちで、決して才能にあふれた青年たちばかりではない。

ビルドゥンクス・ロマン(人格形成小説)を思わせる『影との戦い』では、学院に集うのは男たちばかりであったが、やはり、『外伝』所収の『トンボ』では、『アースシーの風』にも登場するアイリアンが、男装してロークの学院に入り込もうとするのを、守りの長や様式の長は、手助けさえする。前期三部作と後期二作と外伝の世界を分かつのは、柳田国男の言う「妹の力」の強度の差ではなかろうか。

第2巻『こわれた腕輪』に登場するテナーは、その後、ゲドと結ばれることになるが、三部作の中では、期待されながらも成就することはなかった。前期三部作は、西欧的なロゴス優位の観念的世界の色が濃く、テナーの存在は、ユング心理学でいうアニマの地位に甘んじており、主眼はあくまでも、魔法使いゲドの心的成長であって、視界を遮られた灰色の海や暗黒の洞窟は、そこがゲドの内的世界であることを象徴していた。

それに比べ、『帰還』以後、物語は、ゴントの山にせよハブナーの王宮にせよ色彩や遠近のくっきりとした外的な世界が舞台として選ばれている。唯一の例外は死者と生者を隔てる石垣の続く灰色の場所だが、誰もそこにかつてのゲドのように、リアルな世界の地続きの場所として入り込んでいくことはない。そこは、あくまでも異様な世界であり、非日常的な場所、たとえば夢で訪れる場所のように描かれて、登場人物が生きる場所とは隔絶されたところとして描かれている。

そこに、作者の中で、魔法を操る世界が、肯定的なものでなくなり、禁忌とされるものに変わりつつあることが暗示されている。かつては、特権的なものでなく誰もが使うことのできた「手の技」が、太古の力と切り離されてゆく過程で、言葉を操る力と結びつくことで、それらを占有する者と、そこから排除された者との間に越えがたい壁を作り、男たちは魔法使いとして正規の学院に入り、マントや杖という権威の象徴とともにその技を継承する一方で、女たちの技は穢れたもの忌まわしいもの卑しいものとして、魔女やまじない師として軽侮の対象とされていくことになる。

西欧のロゴセントリズム、ファロセントリズムに対するフェミニズム的批判が露骨に現れた分析と見えるが、眼を西欧以外の世界に転ずれば、柳田の『妹の力』をその一つの例として、太古の力と結びついた女性的な力を表す例は枚挙に暇がない。思うに、ル=グウィンは、一度はフェミニズム的批判の眼で自分の「アースシー」世界を見つめ、あの苦渋に満ちた『帰還』を描いたのではないだろうか。しかし、その後、もともと視野の中にあった非西欧的世界に眼を向けることで、男と女が対立概念でなく、補完的な概念として立ち現れるのに出会い、女性に導かれることで、苦境を脱するという『妹の力』を連想させるメドラとアニエブの物語『カワウソ』を上梓し、ついには、魔法使いを超える太古の力に通じた「竜女」を出現させるに至る。

『ゲド戦記外伝』は、そんなことを想像させてくれる。しかし、それだけではない。あの懐かしいゲドの師匠「沈黙のオジオン」が、ル・アルビに庵を定めるに至る契機を描いた『地の骨』。若い頃のゲドに似た自尊心の強い魔法使いが己の傲慢さによって過ち、やがてそこから解放される経緯を滋味あふれる筆致で表した『湿原にて』。今まで表立って書かれることのなかった音楽と男女の恋愛を主題にした『ダークローズとダイアモンド』等々、どれも『ゲド戦記』の世界をより豊かなものにしてくれる作品群である。

現実の世界もまた『ゲド戦記』で描かれる「暗黒時代」の様相を呈しつつある。男たちは性懲りもなく殺し合ってばかりいる。王たちに使われる魔法使いの姿は見えても、「手の女」たちと手をつなぐ男の魔法使いは、どこにいるのだろうか。魔法の才もないただの男としては、せめて日々の仕事に精を出すしかないのだが、一日本を読み続けていたことで、弱まった何かが、部屋を掃き、皿を洗うという「手」の仕事によって回復してゆくことは実感できる。世界の「均衡」を保つことはできなくとも、ミクロコスモスとしての自己の「均衡」は何とか保てたようだ。ここしばらくの弱まりに気づけただけでも、『ゲド戦記』効果があったというもの。時折、挿入される箴言めいた言葉は、作者のイデオロギーが生のまま表出しているとして、ル=グウィンの評価を分けるものだが、好きな者にはよく効くらしい。なんだか、元気が出てきたような気がする。

2004-06-14 22:15:24 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)

ゲド

昨日あたりから本格的な梅雨に入ったらしい。車の窓を開けても、涼しい風のかわりに湿気が入ってくるばかりで、あまり気持ちよくない。低い雲塊は、何層にも分かれ、そこだけいかにも薄い雲の層の割れたあたりから青空がのぞいている。地には稲穂がどこまでも続いている。旅先ならちょっといい風景だろうな、などと思いながら車を駆った。

昨日までの休みで、手持ちの本をみんな読んでしまったので、今日は本屋に寄って帰ろうと決めた。新しいショッピングモールにできた本屋は、けっこう品揃えが確かだと思ったが、いくら探しても『ゲド戦記外伝』は見つからなかった。係員が探しても、在庫は切れていた。売れ筋の本は、表紙を見せて十冊以上同じ本が棚に並んでいるのだから、売れる見込みがないと思っているのだろう。『指輪物語』はあるのに。映画化されないと駄目らしい(ゲドの映画を見たいとは思わないが)。

結局、家に一番近い本屋で見つけた。ここには、ゲド戦記シリーズがやはり表紙を見せて全冊並んでいた。その中から、これだけはまだ、持っていない新刊を一冊抜き出してレジに急いだ。過去に書かれた短編を集めたものだが、ファンの心理としては、是非読んでおきたいもの。出版社は、そのあたり、よく心得ている。

現実の世界に楽しい話題があまりないので、何かを書こうという気があまり起きない。本を読んでも、面白いとは思うのだが、さて、それでどうした、という感じで、なかなかのめり込むところまで行かない。もともと、エッセイや評論が多いのだから、のめり込むのは難しいのだが。

そんなわけで、これなら、と思う好きな本を買ってきたわけだ。雨の続く毎日、時間をかけて、少しずつ読んでいこうと考えている。期待にかなうといいのだが。

2004-06-07 18:10:56 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)





< | メイン | >