足もと

颱風による水害の影響で野菜の高値が続いている。特に葉もの野菜が高騰しているそうだ。ふだんはそんなに野菜を食べたいとも思わないのだが、品薄と聞くと急に食べたくなるのは、ヘーゲルが言っていることだが、食欲もまた他人の欲望である証拠である。欲求と欲望はちがう。腹が減って何か食べたいとからだが望むのは欲求である。どこそこの仏蘭西料理が食べたいというのは欲望である。他人が認めている価値を得ることは他人の承認を得たいということである。つまり「欲望とは他人の欲望」なのである。

さて、スーパーで葉もの野菜の値の高さに驚いた妻は、そこで考えた。葉もの野菜に比べれば根菜野菜はまだ高くなっていない。今夜は豚汁にしよう、と。大根、人参、牛蒡と、たっぷり野菜に豆腐と豚のバラ肉の入った豚汁は、野菜を食べたい気持ちを存分に満足させてくれたわけだが、野菜の高値はあとしばらく続くだろう。葉もの野菜にこだわるつもりはないが、住んでいる地域から遠く離れた土地の災害がこんなにも、生活に関わりが深いものだとは思わなかった。

今度の地震では新潟地方に被害が集中しているが、有名な酒蔵も被害を受けたと聞く。新潟といえば米どころである。その米を使って作られる日本酒の有名ブランドも新潟には多い。「越の○梅」などは、酒を嗜まない人でも名前だけなら聞いたことがあるかもしれない。その他にも、一升瓶一本で一万円、五千円とする酒が、新潟にはある。それほどの銘酒でなくても、自分の好きな酒を造る酒蔵がやられると、毎晩飲んでいた酒が来年は飲めなくなるかもしれない。

酒飲みには、これでなくてはという銘柄がある。私の場合は「初孫」だが、この酒蔵に何かあったら、毎晩の楽しみの何%かは消滅するだろう。こんな惨事に酒の話とはなんだ、という向きもあるかもしれないが、それなら醤油ではどうか。我が家の醤油は、岡山から送ってもらっている。旅行先で気に入って、その後特別に送ってもらっているものだ。ラベルも貼っていないから、通販用のものではない。この醤油工場に何かあったら、毎日の料理の味が変わってしまう。味噌は信州からトラックで売りに来る樽詰めのものだが、この店は最近暖簾分けか何かでもめ、雲行きが怪しい。今ある樽が底をついたら、いよいよこの豚汁も飲めなくなる。

当節、野菜が食べたいなどと思うのは他人の欲望かもしれないが、味噌、醤油は他人様の知らない我が家の味である。欲望というよりも、欲求に近いものがある。それに、野菜とちがって代替品がない。交通網の拡充と輸送手段の発達は、日本中をひとつに結びつけている。毎日の生活は、近隣市町村で自給自足できないものに変化しているのだ。自分の住んでいるところだけを心配していてすむ問題ではない。

台風や地震のような自然災害はどうすることもできない。要は、いかに災害による被害を小さくできるか、災害からの復興をどう支援していくかということにつきる。治水や地震対策についての議論が必要なことはいうまでもないが、当面の仕事として、家や働き場所を失った人々に安心して暮らすことのできる施設を準備することや、自力復興に向けての働き場所の確保等、自治体だけにまかせるのでなく、国を挙げて支援にまわるべきだろう。余所の国の人道・復興支援も大事だが、相継ぐ災害にあえぐ自国民の心配をまずはしてもらいたいものだ。神がかったことを言うつもりはないが、もう一度足下を見直せと警告されているような気がするのである。

2004-10-27 21:04:15 | Permalink | コメント(5) | Trackback(0)

独り猫

会議で上役とやり合った。最近は会議とは名ばかりで、トップダウンで指令が降りてくる。下の者の考えなど誰も本気で聞こうともしない。それで、近頃では何があってもあまり本気で意見を言ったりしなくなっていたのだが、虫の居所が悪かったのか、いつもなら冗談にまぶすところをストレートに出してしまった。意見を述べよと言うから言ったまでだが、はじめに結論ありきでは、真面目に意見を出すこちらがばかに見えてくる。

相手の言うことがもっともなら、それには従うが、どうもそうは思えない。疑問点を問い質しても上役もまたその上役の言うことをそのまま繰り返して伝えているだけだから満足な解答が帰ってこないのは当然だ。頭越しにものを言っているようで徒労感がつのる。正論で相手の誤りを切って見せても「ルパン三世」の五右衛門の科白ではないが、「また、つまらぬ物を切ってしまった」という感が深い。

妻は職場の仲間との付き合いで、今夜は一人の夕食だ。風邪気味なのか、めずらしく食欲がない。妻を送った帰りにスーパーでパックの寿司を買って帰ることにした。寿司屋と鰻屋の数は全国的に見ても多い町だが、スーパーの寿司に盛り合わせ以外に上にぎりの松竹梅まで作る必要があるのかどうか。海に近い町で、ネタは新鮮。魚は結構うまいのだが、近頃では魚の脂もちょっと、という感じがしている。助六の入った盛り合わせでお茶を濁しておくことにした。

スーパーの隣に本屋がある。買い物のついでに立ち寄ってみた。夕飯前だが、けっこう混んでいる。雑誌のコーナーで立ち読みをしている客が多い。どうした訳かは知らないが、新刊本のコーナーは男性作家と女性作家で区分されている。便所や銭湯じゃあるまいし、へんな習慣だと思う。そうは思いながらも男性作家の棚の前に立ってひとわたり眺め回す。こうしていると、買いたい本はむこうから眼の中に飛びこんでくる。

矢作俊彦の『ロング・グッドバイ』が、目にとまった。新聞で広告を見たときから気になっていた本だ。薄汚れた町を彷徨う憂い顔の騎士か、相変わらずだなと苦笑しながらも棚から引き抜いてレジの前に立った。ハードボイルドの世界もすっかり変わってしまった。そんな中で、滑稽なくらい昔のままのスタイルを崩さない矢作俊彦は、評者の言う通り、パロディーのつもりなのか。それとも案外本気なのか、その辺をじっくり確かめてみたいと思った。

ひとり、手酌で冷や酒を飲みながら、パックの寿司をパクついている図というのは、傍目には哀れっぽいながめかもしれないが、当人はこれで意外に新鮮な気がしている。たまにはこういうのもいいものだ。それに、ひとりではない。魚の匂いをかぎつけたか、パックのそばでピンクの鼻をくんくんさせているニケがいる。鮭の身を少し切って掌にのせ、鼻先に突き出してみた。案の定なめてもみない。よほどうまい物でなければ、口に入れない。贅沢なやつだ。

雨の日も風の日も毎日、仕事場と家のいきかえり。サラリーマンは気楽な稼業と、昔の歌手は歌ったものだが、何十年とやっていると、そうそう気楽とばかりは言えないのが分かってくる。自分でリスクを負わない分、自分の考えを押しきることもできない仕組みだ。それに比べ、日がな一日、寝てばかりいて、こちらが与えた餌でも気に入らなければそっぽを向く。したいことはするがしたくないことは金輪際しようともしない。勝手気儘な猫の生き方は、なんて颯爽として見えることか。
「狼とはいかないまでも、せめて独り猫くらいの生き方が、してみたいものだ。」
まだ読んでもいない小説の背をながめながら、ふとそんな言葉を呟いてみた。

2004-10-25 19:42:09 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)

試乗記

日本中に被害を及ぼした颱風が去って、週末はまたドライブ日和だ。県立美術館が近隣三県と協同して「20世紀美術に見る人間展」というのをやっている。本日初日ということで、ドライブがてら訪ねてみた。もちろん、車は妻のコペンである。往きは、妻の運転。すっかり慣れて、先日のように緊張してないので、こちらもリラックスして乗っていられるというもの。

初日というのに美術館は閑散としていた。海外の有名美術館所蔵の作品を借りて企画された展覧会には行列ができるのに、地方の県立美術館所蔵の作品では客が呼べないというあたりが、この国の文化事情というところか。芸術の秋というのに、これといった美術展が企画できないのは、予算の問題もあるのだろう。よく似た規模の地方美術館が所蔵の作品を持ち寄って協同で企画展を開くというアイデアは悪くない。

お目当ては、クリムトの「人生は戦いなり(黄金の騎士)」。愛知県美術館で何度か目にしているが、ウィーンで見たマーラーがモデルのベートーベンフリーズによく似た騎士の乗馬像である。独特の装飾的な意匠が騎士の兜や、手綱、それに剣の束に用いられている。背景は点描で暗緑色の中に金を散らし、画面の半ばを占める馬は漆黒。暗い背景をバックに騎士が身に纏った黄金の鎧が燦然と輝くというきらびやかな一枚。美術館が変わると印象も変わるのか、なんだかもっと大きな絵のような気がしていたのだが。

人間が人間を表現する意味をあらためて考察するというのが、開催者の趣旨らしいが、人物画を集めただけといった感もしないではない。そんな中で、ポール・デルヴォーの「こだま」、エルンストの「ポーランドの騎士」といったシュルレアリスムの画家や、「ノア・ノア」で知られるゴーギャンの版画の前では足が止まった。うまく言えないのだが、他の絵の場合、その絵を見ているという気がするのだが、これらの絵では、絵を窓口にして、別の世界に引き込まれるような気がした。

昼は、美術館のリニューアルに際して新しく入ったフレンチ・レストランに入ってみた。高台にある美術館の地階にあらためて設けられたレストランは、前面を硝子張りにした開放的なインテリアで、屋外にも椅子とテーブルが設えられたオープンカフェ風の洒落たつくりだった。デジュネというのがランチのことらしく、今日の献立は茹で豚の菠薐草ソースというのでそれを、菠薐草が苦手な妻はオムライスを注文した。

いつものことだが、中年女性のグループで店はいっぱいだった。聞きたくなくても聞こえてくる話声が耳について落ち着かない。テーブルとテーブルの間が近すぎるからだ。それと硝子張りというのも吸音効果を犠牲にしている。たしかに窓外の景色は初秋の色を漂わせて心憎い演出だが、声高な人声がそれを台無しにしている。

料理はといえば、薄緑の菠薐草のソースと周りに散らした黄や赤のパプリカの対比がいかにも美術館付属のフレンチレストランの趣だが、肝心の茹で豚はしゃぶしゃぶ用の豚肉が三枚ほど、あとはマッシュポテトで山を作って見せている。見た目はきれいだが、味の方はなんともぼけた印象。妻のオムライスも試食してみた。卵はまあまあだが、ライスの味付けがやはり曖昧。どちらにしても、料理人の主張が感じられない。食後の珈琲は、エスプレッソのつもりなのだろうがこれも薄味。おまけに、カップを見て驚いた。有名な珈琲チェーン店のロゴ入りである。ご丁寧に南洋風の家のイラストまでついている。フレンチを気どるなら珈琲カップくらい自前の物を用意できないものだろうか。

気分直しに、いつも行く店でルコラとサーモン、特性の手揉みベーコンとパスタ、それにフォンデュ用のチーズを買って帰途に着いた。帰りは運転席だ。MOMOのステアリングはウッドと革のコンビネーションタイプ。自分の車より小さめで、ずいぶんタイトな感じだ。タンレザーのシートに潜り込むように乗り込んだら、いざ出発。排気量のせいなのか、オートマティックのせいなのか、滑り出しはやや鈍い感じだが、自動変速でギアが二段階切り替わると俄然調子が上がってくる。

まだ、慣らし運転中なので、スピードは控えめ。けれど、オープン。スピード感はセダンの比ではない。車線変更でステアリングを切るとレスポンスのいいこと。くいっという感じで右レーンに出る。これはたまらない。ついつい、はやる気持ちを抑えて、もとのレーンに戻る。隣を大型トラックが追い越していく。タイヤとタイヤの間から向こう側の景色が見える。フロントグラスがなかったら、下をくぐり抜けられると思った。アクション映画のワンシーンを思い出した。やはり、運転席に座ると思い出す映画もちがってくる。『ジャッカルの日』を思い出す。今度は海岸線を走ってみたくなった。リアス式海岸で有名な有料道路が隣町にある。明日も天気がよかったら、ドライブに行こうと妻を誘った。てるてる坊主をつるす子どもの気分である。

2004-10-23 15:48:35 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)





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