美術館

ずいぶん暖かくなった。県立美術館でやっている「HANGA東西交流の波」という企画展が今日で終わるので、昼食を食べた後にでも行ってみることにした。その前に図書館に寄り、借りてた本を返し、新しい本を借りる。

図書館までは屋根を閉めていたのだが、閉めきって走っていると暑いくらいの陽気である。駐車場がいっぱいで車を止められないので、一人だけ降りて本を借りてくることにした。購入して欲しい本をリクエストするのだが、図書館の棚にあるかどうか確かめてからしてほしいときつく言われているので、コンピュータで検索をかけた。一応見あたらないようなので、カードを提出して外に出た。駐車場に着いたら車の屋根は開いていた。
「あれ、屋根開けるの?」
「うん。暑かったから。」
花粉症が心配ではあるが、薬も飲んだことだし大丈夫だろう。

新市街と旧市街を隔てて流れる川に架かる橋を通るとき、堤防の桜の木の枝先がほんのり赤みを帯びているのが分かった。桜が咲くのもそう遠くなさそうである。春霞なのか、ふだんは見える山が全然見えない。まさか、花粉のせいということもないだろうが、何もかもがぼんやりとけぶって見える。

コーデュロイのトラウザーズに厚手の綿ネルのスポーツシャツ、その上にスエードのジャケットという軽装だが少しも寒くはない。直射日光を浴びて足下もほかほかしている。これで花粉の心配さえなければ、絶好のオープン日和なんだが。

昼はいつものリストランテで帆立の冷製マリナーラと茄子のグラタン、それに好物のジェノベーゼのパスタ。運転はここから交代することにしたのでグラスワインは片方だけ。ノンアルコールビールを置く店が増えたのは有り難い。炭酸入りの水があればそれでもいいのだけれど。

最終日ということもあってか、入りは悪くなかった。入り口で前売り券を忘れた老夫婦が互いに相手のせいにして言い合いをしているのがおかしかった。車まで戻ればいいだけだが、それが辛い年頃なのだろう。教科書で観たことのある亜欧堂田善や司馬江漢の西洋風の風景を描いた銅版画から始まり、歌麿とロートレック、北斎、広重の浮世絵とゴッホの油絵(縮小コピー)を並べて展示するという丁寧な展示の仕方だった。

ゴッホの最期を看取ったガッシェ博士所有のプレス機が会場の一角に展示してあった。ゴッホがそのプレス機で印刷したガッシェ博士の肖像画や、プレス機を日本に持ち帰った長谷川潔の銅版画の道具一式と並べてみるとき、東西の交流というのが言葉だけでないことが胸に浸み込んでくるようだった。

個人的には、ルドンの影響を受けた長谷川潔の作品や、黒から白に至る微妙な階調を表現した駒井哲郎の作品が好きだ。日本の型染めがシルクスクリーンに発展したのだという説明に蒙を開かれた気はしたが、そこからさらに進んだ現代の写真を用いた作品には版画本来の良さを感じることができなかった。若い頃は個展まで見に行った横尾忠則もイラストレーターとしてなら面白い存在なのだが、版画の範疇に入れられると違和感がある。この間観た小林敬生の師にあたる日和崎尊夫の木口木版も展示されていたが、一本の線も忽せにしない木口木版のような仕事に惹かれるものがある。

帰り道は雲が出てきたせいか、往きほど暖かくはなかった。ただ、それでも屋根を閉じたくなるほど寒くはない。痩せ我慢するわけではないが、花粉が飛ぼうが、日が陰ろうがオープン・カーは屋根を開けて走りたい。気候のせいだろう、お仲間もけっこう全開で走っていた。桜が咲く頃になったら、是非その下を走りたいものだ。桜は何より下から見上げるのが素晴らしい。車の中にひとひら、ふたひら花びらの落ちてくるのさえうれしいではないか。

2005-03-27 17:57:33 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

オール アバウト マイ マザー




土曜日の午後。急性アレルギー性鼻炎の妻は耳鼻咽喉科でもらって来た薬を飲んで寝ている。カウチに座ってテレビをつけると、女の大写しのポスターが目に入った。フェリーニの映画に出てくるアニタ・エクバーグに比べると、少し年をとっているし表情も硬いが貫禄のある顔だ。この顔には見覚えがあった。スペインの監督ペドロ・アルモドバルの『オール アバウト マイ マザー』だ。

映画は始まったばかりだった。どうやら父のいない作家志望の男の子と、昔は劇団員で今は臓器移植に関わる仕事をしている母親マヌエラの物語らしい。その日が誕生日だった男の子が観たがったのは、有名な女優ウマによる『欲望という名の電車』の舞台。ところが、劇がはねてから女優にサインをもらおうとした息子は後から来た車に轢かれて死んでしまう。

我が子の臓器を他人に移植しなければならなくなった母は仕事を辞め、かつて息子を産んだバルセロナに向かう。昔なじみは胸にシリコンを入れた街娼アングラード。二人で仕事の紹介をしてもらいに行った修道院で尼僧のロサに出会う。恵まれない人を救うことに生き甲斐を見出している彼女は、マヌエラのかつての夫で今は女性として生きるロラの子どもを身ごもっていた。実の母に心を開くことのできないロサにとって、優しいマヌエラは母親以上に頼りになる存在だった。

やがてロサは男の子を産むが産褥で死んでしまう。エステバンという我が子と同じ名をした赤ん坊を託されたマヌエラはロサの葬式に帰ってきたロラにそれまでの経緯を話す。エイズで余命幾ばくもない女性のなりをした父が我が子をその手に抱きキスをするシーンは妙な感動を呼ぶ。

麻薬中毒者や未婚の母、ゲイ、レズビアン、エイズ患者と、社会のマイノリティばかりが登場しながら、マヌエラという女性の包容力や行動力、それに周りの人々のあっけらかんとした明るさのせいで、不思議な明るさを湛えた作品になっている。実に都合よくリレーのように新しく登場してくる人物が皆、マヌエラを中心に結びつけられてゆく。看護婦役も女優も母親役も何でもこなせるマヌエラという女性あっての物語である。

題名は作品中にも出てくる『イブの総て(All about Eve)』から拝借したものだろう。映画や舞台、文学からの引用、椰子の木の繁るバルセロナの公園風景、ガウディの建築と至れり尽くせりの映画的興味に溢れていることは言うまでもないが、何より大事なことは映画としての出来の良さだ。冒頭の母子の対話から結末に至るまで映画的緊張とその解きほぐしの巧みなこと。耳と目を休ませることができない映像の転換のテンポの良さに加えて、何度も涙ぐんだり笑ったりさせられる作劇術。キャスティングの上手さと俳優の演技の的確さ。久しぶりに映画を見る愉しさを味わった。

2005-03-26 23:32:39 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

猫のシッポ

猫のシッポ
講談社
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居間のテーブルの上に、妻が図書館で借りてきた本が置いてあった。こちらを向いた猫の写真が表紙になっている。猫と目が合ってしまった。安部譲二の『猫のシッポ』という本だ。安藤組のちんぴらとJALのパーサーの二足のわらじを履いていたという変わった経歴を持つ元ボクサーの作家。代表作は『塀の中の懲りない面々』。

ぱらぱらとページを捲ってみると、すべてこれまで飼ったことのある猫の話、さすがに小説家だ。どれもなかなか読ませてくれる。雨の日に出かけた銭湯の前で、捨て猫の貰い手が見つかるまで家に帰れないでいる少女の話など、映画のワンシーンだ。迷い猫の飼い主を捜してオープンカーでご近所を走り回る話にも少女が出てくる。嫌いなのは小泉内閣の女性閣僚だが、好きなのは若い女性で、中でも少女を書くときが一番気合いが入っている。

猫語の分かる小説家は、猫との会話を翻訳してくれるのだが、どの猫もクールでカッコイイ。前足でモミモミするところや開けた布団の中に入ってくるときの仕種がニケと同じで、それだけで顔の筋肉がゆるんでくるのが分かる。カウチに寝転がって一気に読んでしまった。進駐軍相手のゲイバーで用心棒をしていた作家の喧嘩っぷりを見て、デビュー当時の三島由紀夫がボクサー志願をする話など、なかなか他では読めない。

向井敏の言った「作家はどれだけ我が身の恥が晒せるかで決まる」という言葉で、懲役中の経験を書くことを思い立ち、「塀の中」ができた。恥というなら、刑務所に入る経験はその最たるものだ。しかし、ただ恥を晒しただけでは人が読んではくれまい。人に読んでもらえる文章になるまでにはかなりの修行がいったようだ。駆け出しの作家を虐める鬼のような編集者があってのことだが、「何故そんなに虐めるのか」と訊く作家に「お前らはすぐに威張り出す。だからその前に虐めておくのだ」と言った編集者の言葉に唸ってしまった。

2005-03-24 21:39:11 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

半落ち

評判の『半落ち』を見た。原作を読んでいないので、どこまでが映画の問題かは分からないのだが、人間の魂というものを、どうとらえるかということについて、徹底した思索がなされているのか危ぶまれる。この映画で人間と考えられているのはたかだか「記憶」に過ぎない。記憶を保持できなくなったら人は人でなくなるのだろうか。記憶を亡くしつつも何かのはずみにふと垣間見られる仕種や何かに、その人を見ることはできないのだろうか。

人と人との関係性が希薄になり、知的な、或いは感情的な関係だけが先行して、生きている者としての存在感が見失われている。ただ、いるだけで存在感があった老人がかつてはどこにでもいた。人は、知的な存在ではあるが、それだけではない。感情は専ら人を人らしく見せるが、やはりそれだけでもない。記憶を亡くし、自分をなくしたとしても人は生きている限りその人なのだ。爪を噛んだり、首を傾げたりする仕種の中にだってその人は存在している。人というものは、そんなに薄っぺらいものではない。

映画を見ながら、そんな違和感が頭を擡げてきた。自分の愛していた人が、アルツハイマー症に冒され、記憶をなくしたとしても、愛している人がなくなってしまう前に自分の手で殺すのが愛していることなのだという見解にはとても承服できない。自身がボケはじめた父親を持つ若い裁判官の一人に、かろうじて疑念を表明させているが、その声が力を持っているようには見えない。

純愛映画が人気のようだが、人間観を単純化し、しっかり考えるよりも手軽にカタルシスを感じさせてくれる映画や小説に人々が惹かれていく有り様に違和感を覚える。

2005-03-23 23:57:09 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

エスプレッソ

今年の聖ヴァレンタインの日、珈琲好きの私のために、妻がプレゼントしてくれたのがエスプレッソマシンだった。いつもの豆ではローストが浅く、いくら細挽きに挽いてもエスプレッソの香りが出ない。専用の豆を探したのだが、生憎近くの店には置いてなかった。思い出したのが、ずっと以前、いつも出入りしていた珈琲豆の専門店だった。

そこは不思議な店だった。建物はさほど狭くもないのに、客の立っていられる場所が異様に狭いのだ。畳一畳を縦に細長く半分にしたほどのスペースが客のために用意された空間である。そこに立つと、目の前にはお定まりの珈琲豆の入ったガラスケースが目の前に立ちはだかっている。奥の方にはアンティークというかがらくたというのか、趣味で集めたような古物が雑然と放置されていて、おそらく以前は古物商でも営んでいたのではないかと想像されるのだった。

先代が趣味で始めたような店を、二代目が次いだのはいいが、あまり商売に身を入れることができないまま商売替えをしたのだろう。珈琲豆専門店というのは、いかにも趣味が高じてはじめそうな仕事ではないか。しかし、やはり二代目はあまり仕事に熱が入らない。日中は遊び歩いて店に居着かない。仕方がないので、嫁いできた嫁が何とか商いをしている。そんな店だ。

しかし、この若奥さんがなかなか感じのいい人でこの店を贔屓にしている客は多い。もっともこの町で珈琲豆の専門店はここくらいしかない。わざわざ種類のちがう豆をブレンドして飲もうという酔狂な客は、最近では骨董品ものだろう。おそらく年寄りの客で保っているのではないか。久しぶりに来て、まだ商売をしていたので驚いたくらいだ。

二代目というのが、よほど嫉妬深い質なのか、何度も豆を買いにきているのに奥さんの顔を拝んだことがない。客との間にガラスケースがあって、豆の受け渡しは、ケースの下に開いた小さな窓で行われる。「こんなところからですみません」と、言いながら、そっと豆とお釣りが手渡される。その声だけで想像するのだが、いかにも感じのいい人に思えるのだ。きっと道楽者の亭主にもかいがいしく仕えているにちがいない。

こんな小さな店では、何ほどの利益もないだろうが、細々とでも続けてくれているのは有り難い。最近では、国際事情でキューバからの豆が入りにくくなったり、ブルーマウンテンが品薄だったりと、お詫びを書いた張り紙が目立つ。店の所為ではないのに客に謝るところが、いかにもこの店らしい。

深炒りの豆は、つやつやと黒光りして匂いも強い。電動ミルで挽くと機械の内部に油分が付着して掃除が欠かせない。それでも、豆から匂い立つ香りはなんとも言えず刺激的だ。マシンにセットしてしばらく待つと、蒸気が盛んにあがり、エスプレッソ特有のアロマが部屋中に広がる。夕食後、一杯のエスプレッソの与えてくれる満足感は他の物には換えがたいものがある。

ホワイトデイにはエスプレッソ専用のデミタスをと、探していたのだが、不景気のあおりで町に一つのデパートが閉店してからというもの、高級品とは言わないが、それらしきものを探すのに難儀するようになった。百円ショップは大賑わいだが、何かものを探そうとすると、インターネットに頼らざるを得ない有り様である。手触りが気になる愛用のものを選ぶには不便な世の中になった。道楽でいいからそんな店を出す御仁はどこかにいないものだろうか。

2005-03-17 21:41:16 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)





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