恋は邪魔者

はじまってすぐに気がついた。これは、60年代ハリウッドのコメディへのオマージュなのだと。もしかしたらパロディかも知れない。作品のでき具合と見ている方の受けとめ方によって、パロディなのかオマージュなのか評価が分かれるところが辛いところだ。

ドリス・デイとロック・ハドソンがやっていた役どころを演じるのが、レニー・ゼルヴィガーとユアン・マクレガーというのがミソ。はじめに言っておくが、レニー・ゼルヴィガーという女優をちっともいいと思わない。『ブリジット・ジョーンズ』も『シカゴ』も見た上で言うのだから、よほど合わないのだろう。ユアンの方は、『トレイン・スポッティング』はよかったが、『ムーラン・ルージュ』は気に入らなかった。もともとスコティッシュなのだし、イギリスの労働者階級役にはぴったりなのだから、無理にハリウッド進出なぞしなくても、と思うのはこちらの勝手な思いというものか。

当時の髪型やファッション、部屋の調度品、ビートニクの黒服や宇宙服をイメージしたダンサーの衣裳、オート・チェンジャーのLPレコードが円盤のように飛び出すギャグ、摩天楼の窓から見えるマンハッタンの書き割りと、当時、元気だったアメリカ映画を思い出させるシーンには、心動かされるのだが、主演の二人が一生懸命演じれば演じるほど、ロック・ハドソンを思い出して比べてしまうのだ。

スター性というものがある。『ジャイアンツ』のロック・ハドソンはよかったが、それほどたいした俳優ではない。ただ、ロマンティックなコメディを演じさせたらその容姿や物腰は他の追随を許さなかった。ばかげた話も華のあるスターが演じるから見ていられる。ドリス・デイに華があったかといわれると少し困るが、他のスターにない身近なところがよかったのだろう。観客が女性なら、感情移入が容易になる。レニー・ゼルヴィガーというキャスティングはそのあたりを考えたのかも知れない。

二人とも、ちゃんと歌もうたってダンスも無難にこなしている。その点では及第点なのだが、セットや音楽、ファッションはそのままで、主演の二人だけ替えてもらいたいと思った。リチャード・ギアとジュリア・ロバーツのコンビは見飽きているだろうが、少なくともこの二人程度の華がほしい。善くも悪しくもハリウッド映画なのだから。

2005-05-29 23:13:19 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)

五月病

若いスタッフの一人が、この間から顔を見せなくなっていた。元気で明るくやっていたようだったが、一つつまずいたら、それから出にくくなってしまったようだ。リーダー的な素質を持った人材だが、それだけに自分が何かができないという事実を受け入れるのが難しかったのだろう。

近頃の若い者は、というのはギリシア時代に書かれた物にもそういう言葉があったそうだから、今の時代の専売特許ではないが、打たれ弱くなっているのは実感できる。それまでの生育歴で、つまずかぬよう、転ばぬよう、周りから温かく見守られてきているからか、社会とも言えないほどの小さな共同体の中でも、自分の失敗を知られるのが耐えられないようだ。

プライドは高いわりに、実力が伴わないのは、まだ若いのだから仕方がない。謙虚になって人から学べばいいだけのことだ。若いうちの苦労は買ってでもしろという言葉があるくらいで、我々くらいの年になると、さすがに失敗を笑ってすますことはできないが、若いうちなら許されることが多い。

要は、謙虚になれるかどうかということだ。どういう育ち方をしてきたのかは知らないが、少子化傾向が進み、家族の中でも大事にされてきたのではないか。何不自由なく暮らしてこれたのは自分の努力のせいではない。みんな周りがお膳立てしてくれていたのだ。社会に出れば、自分の力で道を切り開くこともしなければならないだろう。

年度当初は忙しい。次から次に目の前に出てくる問題を解決するためには、体力もいるが気力もいる。経験から言うと、あまり深く考えず、一つ一つ当面の課題をクリヤしていくのが一番。自分をよく見せようとか、人からどう見られるか、などという気持ちに足を引っ張られると、思わぬところでつまずくものだ。

無我夢中でやって来た四月が過ぎ、五月の連休を迎えた。疲れもどっと出るだろうし、まとまった休みがかえっていろいろなことを考えさせるのだろう。五月病とはよく言ったものだ。幸い、今日は元気に顔を出した。明日もこの調子で来られるといいのだが。この時期を乗り越えることができれば、なんとかもつだろう。

2005-05-11 17:42:04 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

不幸な客

ひさしぶりに訪ねたインド・カリーの店はなんだか様子が変わっていた。前に来た時は表通りから少し入った路地に面していたはずなのに、表通りに面した硝子に黄色の太い帯が入り、ファスト・フード店のような外見に、インド・カリーの店と書かれた幟まで上がっている。入り口だけは、前の店と同じところから入るのを見ると、店が変わったわけではなさそうである。

新しい店は上から下まで大きな硝子張りの壁が二面にあり、明るく広く何やらファミリーレストランのような店になっていた。テーブル数もふえ、メニューもふえていた。何より変わったのはランチ・ヴァイキングがメニューの中心になっていたことだ。前にも書いたが、ヴァイキング嫌いである。食べ放題をうたうその精神が嫌いだ。量より質。美味しい料理をちゃんとしたサーヴィスで提供してこその料理店だろう。

チキンとマトンのカリーそれにタンドリー・チキンとナンを一枚だけ注文した。ヴァイキングになったことでセットメニューからスープが消えた。あのスープが絶品だったのだが。カリーの味は変わってなかったが、ナンは、なんだか一回り小さくなったようだ。ヴァイキングでは、ナンも食べ放題である。そう大きく作っていては商売にならないということか。

ムンバイ出身だと話していたインド人のマネージャーも消え、日本人男性がホールを取り仕切っているようだった。以前の店は、表通りから離れていて、外の明かりが入りにくく、なんだか階段下のような薄暗いところに小さなテーブルが二つばかり置かれているだけの小さな店だったが、料理を待っている間も、こちらが食べている間も、流暢な日本語を喋るインド人マネージャーが何かと話しかけてきたものだ。

絶対値としての料理の味は変わらないと思うのだが、料理を食べる愉しさのようなものが明らかに減少した。これでは、そのあたりにあるカレー屋と何も変わらない。また一つ、贔屓にしていた店が消えた。なぜだか知らないが、気に入った店や品物が必ず消えてしまう不幸に見舞われ続けている。こちらの嗜好と一般の嗜好がかけ離れているのかもしれない。インド人と話しながら料理を食べたいと思う日本人はたしかにそう多くないだろう。もしかしたら、私の好みは店や品物が流行らなくなる指標になっているのだろうか。だとすれば、どうやら私自身が「不幸な客」ではないのか。あまり好きな店には立ち寄らない方が無難なような気がしてくるのだった。

2005-05-08 15:45:30 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)





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