大掃除

年々大掃除が億劫になってくる。家を建てて間もない頃は、汚れも気になるし、一年の垢を洗い落とすぞ、という意気込みで網戸から硝子窓に至るまで徹底的に磨き倒したものだ。しかし、築二十年を過ぎてくると、塗り直した外壁やリフォームしたばかりの浴室以外は、すっかり古ぼけてしまった。新築当時は自慢の二重窓も真空だった層に空気が入りこみ、結露と乾燥の繰り返しで曇りガラスのようになってしまった。なまじ、二重になっているから汚れを拭くこともできない。そんなこんなで今ひとつ掃除にやる気が出ない。

それでも、年末くらいは大掃除をしないと、なんだか落ち着かない。掃除機をかける前に、まず家中の部屋を整理し始めると、出てくる出てくる。ごみというには、あまりに新しい、使われなくなった不要品の山。どうしてこんなに毎年ごみが出るのだろうか。捨てられずにしまっておいたものがあまりに多く、新しく買った物の置き場がないから、古くなって使わなくなったものから処分していくしかない。

分別収集というのが建前だから、プラスチックと金属は分けなければいけないのだが、ほとんどが、細部に渉って混在していて、分解などとてもできない。それより、そんなことにかかずらっていては、とても掃除まで手が回らない。一応どこかにまとめておいて、後でなんとかしよう、と思うのだが、それがまちがいのもとだ。年々分類や整理できないものがそちらこちらに溜まっていき、収拾がつかなくなっている。

考えてみれば、昔の大掃除はすっきりしたものだった。庭に敷いた茣蓙や筵の上に大小の家具類を持ち出し、畳を上げ、床板を引っぺがした。畳を叩いて埃を出し、床板を敷き直して、防虫剤を撒いた上に畳を敷き、家具を置き直した。障子は全部貼り直すから、煤払いをした天井や壁まで真っ白な紙を通した光を受けて新品みたいに輝きを取り戻す。家族総出でやるから、本当の大掃除だった。それも自分の家だけではない、町内のあちこちでぱんぱん畳を叩く音がしていたものだ。

天井と壁だけ残して、床板まで上げて掃除したわりには、埃や汚れは出ても、大きなごみというのはあまり覚えがない。必要最小限のものしか家にはなかったからだろう。我が家が貧しかったから、ということもあるが、どこの家でも事情は似たようなものではなかったか。要するに物が溢れていなかったのだ。衣食住、どれをとってもシンプルなものだった。

欲望というのは、他人の欲望である。人は本当に自分が欲しいのではなく、周りの者が欲しがる物を欲しがるのだ。こうして家電製品から自動車に至るまで、必要感からではなく欲望に動かされて買ってしまった物で家中身動きがとれなくなってしまっている。DVDも液晶テレビもない我が家だが、それでも、けっこう要らない物がふえる。

過剰包装もその原因の一つだ。消費行動が経済を繁栄させるのは事実だから、メディアも購買意欲を掻き立てる。近くに物を売る店が消え、何を買うにも車の厄介にならなければならない。ネットや通販で物を買うと、段ボールがやたら大きい。緩衝剤も含めて、ごみを買っているようなものである。

さすがに身動きのとれない生活は息苦しくなってきたのか、最近は捨てることを奨励する本が売れている。持ってしまったものは捨てるしかないのだろうが、今年「もったいない」という言葉が脚光を浴びたように、我々日本人がごみとして捨てるもののほとんどは、本当の意味でごみではない。まだまだ、使える物を捨てるのは、どこか罪悪感を覚えるのも事実である。できるだけ買わない、もらわない、持ち帰らない(なんだか非核三原則みたいだ)という意識でやっていくしかないのだろう。

2005-12-29 19:29:03 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

異音

異音が消えない。リアゲートあたりから何かが転がるような小さな音がするのに気づいたのは納車後間もなくだった。すぐにK氏に電話をしたのは言うまでもない。K氏の自宅のある町は近頃合併して同じ市民になったばかりだ。仕事の帰りに寄りますというので待つことにした。

夕食後に顔を出したK氏を助手席に乗せ、少し走るとK氏は言った。
「なるほど。これは気になりますね。」
後ろに回り、リアゲートを開けると
「これで少し走ってみてください。」と言った。
K氏を横に乗せ、車を出した。そのまま百メートルほど走ったが、音が聞こえなくなった。原因はどうやらリアゲートにあるらしい。しかし、今すぐには何もできないので、修理工場に入院させることにした。

代車のフィアット・プントに乗って二日ばかりした頃電話があった。結局原因は不明のままだが、内装を全部はずしてつけ直したことで、音は格段に小さくなった。これで我慢してくださいということである。たしかに気にしなければ忘れていられる程度に改善されていたので、それでよしということにした。工場まで持っていって何もできなかったのだ。日本では分からないということである。

その後しばらくは忘れていたのだが、岐阜に行った頃から、時折何かの拍子で例の音がするようになった。ずっと鳴っているなら、また電話もできるのだが、全然音のしない日もある。気まぐれなのだ。皮肉なもので担当者を呼ぶと、その時は音がしなかったりすることは前の車でもあった。こちらが神経質すぎるのだ、と言われかねないので、そうそう電話もできない。

速度が上がり、エンジン音が大きくなると、それにかき消される程度の音なので気にしなければいいようなものだが、性格だろう。気になるものは仕方がない。車が帰った日、
「会社まで走っていく間、音はしたでしょう。気になりませんでしたか?」
と、聞いた。K氏は少しも間を置かずにあっさりと答えた。
「ラジオを聞いて、ごまかしました。」
イタリア車とつき合うには、こういう神経がいるのだろう。きっと。

2005-12-18 10:11:33 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)





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