レジェンド・オブ・メキシコ

窓の外は雪雲。部屋の中にいてさえ本を持つ手がかじかむ寒さで、書斎に閉じこもって一冊読み終えると辛抱たまらず居間に下りてきてしまった。さすがに石油ストーブのある居間は書斎よりは温かいが、足下からしんしんと冷えてくるこの寒さはただごとではない。

こんな日は膝掛けを用意してソファに腰を落ち着け、映画でも楽しむに限る。そんなわけで、ロバート・ロドリゲス監督の『デスペラード』『レジェンド・オブ・メキシコ』、それにセルジォ・レオーネ監督の『ワンスアポンナタイム・イン・アメリカ』と立て続けに三本見たら日が暮れてしまった。

もちろん、『レジェンド・オブ・メキシコ』は『デスペラード』の続編、それに『レジェンド・オブ・メキシコ』の原題が『ワンスアポンナタイム・イン・メキシコ』ということもあって、この三本はなんとなくつながることになる。

B級というランクがある。後ろにグルメとつけてソースカツパンのような、美味いのだが、手放しで美味いとほめるのをはばかられるようなものを指して使われることが多い。愛好者にとっては御馳走でも一般にはとても一級品とは言い難いそんな代物が無論映画にもある。

ロバート・ロドリゲス監督の『エル・マリアッチ(ギター弾き)』シリーズはそんなB級活劇の現代版である。ギター・ケースに銃を隠した伝説のガンマンが暴れ回るというアクションものだが、メキシコの町を舞台に、家の屋根からバスの屋根に飛び移ったり、撃たれる弾数の多さと爆発の火炎シーンの派手な一口で言えば娯楽作品だ。

ジョニー・デップが『レジェンド・オブ・メキシコ』について語っている時セルジォ・レオーネの名を挙げていたように、西部劇に対するマカロニ・ウェスタンのスタンスを踏襲しているところに、メタB級活劇としてのロバート・ロドリゲス作品の面白さがある。

楽屋落ちではないが、お定まりの展開や、そこまでやるかというシュールな小道具の使い方についつい笑わされてしまうのだ。ネタバレになるので詳しくは書けないが『レジェンド・オブ・メキシコ』におけるデップの左腕など、まさにその典型である。

監督自身も「役者達は他の監督の映画で仕事をして、ぼくの映画に遊びに来る」と言っているように、一くせも二くせもあるような役者連が実に楽しそうにはまり役を演じているところを見るのがまた愉しい。隻眼の情報屋はケビン・コスナーの『ティン・カップ』で相棒のキャディ役をやっていた役者だし、すっかり顔つきが変わってしまって容貌魁偉になったミッキー・ロークのけちな悪党ぶりなど勿体ないような配役だ。逆にウィレム・デフォーなどはぴったりすぎてこれがキリスト役をやった役者かと思ってしまうほどだが。マルケス将軍役の役者だけ見覚えがなく、これが少し残念と言えば残念。

小難しい理屈はいらない。面白ければそれでいい、という人向けの映画である。ハリウッド超大作が金と日数をかけ、スター(といっても使い回しだが)の顔を揃えるわりに、たいして面白くもない映画を撮っていることを考えると、おそらく低予算、早撮りでこれだけのものを撮ってしまう才能というのは侮れないものがある。とにかく見て楽しいのが何より。

2006-01-22 11:18:02 | Permalink | コメント(1) | Trackback(0)

トロイ


映画館で見ようと思っているうちに終わってしまって、見のがした作品だ。こういう映画こそ大きなスクリーンで楽しむべきだろう。映画を見る前に、『イーリアス』、『アエネイアス』その他の関連本まで読んでおきながら、ついに見に行かなかったのは、原作とのちがいが予想されたからだ。

果たして、いちばんのちがいは神々が登場しないことである。もともと、神々が人間が増えすぎたから少し減らそうと考え、からかい半分で干渉した結果起きたのがトロイ戦争である。それを英雄同士の人間ドラマに仕立て上げるには、神は余計物であったにちがいない。神官や巫女の口から言及されはするが、神々の影は薄い。

その結果、男と女、父と子、友情という普遍的な主題を核に物語は構成されることになる。ローマ建国の礎となったトロイの物語だ。神と人とが同じ地平で行き交う不思議な世界である。人間の英雄や美女は、その強さや美しさが神と比べられ、時には神と競ったりもする。神の方もよくしたもので、贔屓の英雄には加護を与え、敵の足は引っ張るなど、したい放題である。そのよく言えばあっけらかんとした古代世界の風通しの良さのようなものが見られなかったのは、残念だった。

人物造型で核になっていたのはエリック・バナ扮するトロイの王子ヘクトールだろう。困り者の弟パリスに寄せる兄の思いと指導者としての思いの中でディレンマに襲われる高潔な人格がよく出ていた。この人物が秀でているからこそ、父王の悲しみ、好敵手であるアキレスの敵愾心が燃え上がるのであるし、殺したあとの喪失感が見る者の胸を打つのだ。二人の戦いの場面の動と父プリアモスがヘクトールの遺体を引き取りにアキレスのもとを訪れるシーンの静が、対比的に描かれ、感動的な場面になっている。

年老いてなお美しいジュリー・クリスティーや、名優ピーター・オトゥールの雄姿を目にすることができたのはうれしい限りである。ただ、絶世の美女の代名詞であるトロイのヘレン、ヘクトールの妻アンドロマケを演じた二人の女優については疑問が残った。かつて見た映画では『黄金の七人』のロッサナ・ポデスタがトロイのヘレンを演じていたが、堂々たる体躯、気品のある容貌という点で非の打ち所がなかった。神が嫉妬心を抱くほどの美貌というには、今回のヘレンは線が細く神経質的で現代的すぎるのではないか。モデルのような美しさは神話時代の美の基準とちがいすぎて、違和感があるのだ。

CGを駆使した群集シーンはスクリーンで見なければその迫力は半減する。爆発シーンも現代の火薬があるわけではないだろうに派手すぎるし、戦闘シーンの殺陣もカンフーアクションもどきのスピードがかえって迫力を殺いでいるように思った。重い盾や剣を振り回すのだ。よろよろ、よれよれでいいではないか。まあ、それでは今の観客が不満を漏らすのかも知れないが。

廃船の部品を使って作られたような木馬はリアルで、今回のセットを含めた作り物の中で最も満足させられた。良い意味でも悪い意味でも一大スペクタクル史劇というべきだろう。

2005-08-27 12:40:00 | Permalink | コメント(3) | Trackback(0)

シービスケット



人生で一度は挫折を経験した男たちが、一頭の競走馬によって再び生きる力を与えられる物語である。

20世紀初頭、T型フォードの誕生は流れ作業による大量生産の時代を開き、それまでの労働の質を大幅に変えようとしていた。それまで産業を担っていた専門技術を持った職人は無用の長物とされ、安価な労働力に切り替えられていった。一方、ニューヨーク証券取引所にはじまる株の大暴落は大量の失業者を生み、家を失った人々が大量に街に溢れ出した。そんな時代である。

何よりも馬が好きで、その扱いにも長けていた牧童のトムは、鉄条網の普及によりカウボーイとしての仕事がなくなりつつあった。

株の暴落で家を失った両親は、馬に関する才能を見抜いた馬主に少年のレッドを預け何処かへ去る。草競馬の騎手となったレッドだったが、親に捨てられた心の傷は、彼を虚言癖のある怒りっぽい若者にしていた。

持ち前の才能と野心で、西部で自動車産業を興して成功したハワードは、最愛の息子を自動車事故で失い、妻にまで去られてしまう。

そんな男たちが、ハワードの再婚相手を通じて巡り会うことになる。事故以来車庫を封印していたハワードは妻の影響もあって、いい馬を探していた。そんな時、骨折して殺されそうになった馬を治療しながら森で暮らすトムに出会い調教師として雇うことになる。

競走馬は速ければいいというものではないというのがトムの持論。朝霧の立ちこめるパドックでトムは一頭の馬と目が合う。その馬には心があった。馬の名はシービスケット。名馬の血をひきながら、大食らいで怠け者の性格、小柄な体格が災いして、今では相手の馬に勝ちを譲って自信をつけさせる調整馬に甘んじていた。そのストレスが、気を荒くし、安値で売られるところまで来ていた。

買ったはいいが、暴れ馬で乗り手がいない。騎手を探すトムの眼に大勢を相手に立ち回りをしていたレッドの姿が馬の姿と重なる。名コンビは西部の競馬を総なめにするが、東部には名馬中の名馬がいた。苦労の挙げ句やっと決まったマッチレースを目前にして、レッドが足を骨折してしまう。

東部の名門対西部の成り上がり、成功者と挫折者、名馬と悍馬、富める者と貧しき者という二項対立のドラマ設定はあざとさを感じさせるくらいの構成だし、騎手仲間の友情をはじめとして登場人物のすべてが善人というのは、物語の底を浅いものにしてしまうように思うが、何とこれが実話をもとにした映画だというから驚く。

「けがをしたからといって命まで奪うことはない」という、馬に向けてのトムの言葉が、一度失敗をしたからといって人生を捨ててしまわなくていい、というメッセージとなって全編に繰り返し流される。挫折を経験し、くじけそうになっている者には何より心にしみる言葉である。

実況アナを演じるウィリアム・H・メイシーの怪演はおまけとしても、体を絞り込んで、ジョッキーらしく見えるトビー・マグワイヤ、ジェフ・ブリッジス、クリス・クーパーら助演陣の抑えた演技が、ともすれば大上段な感動物語になりそうな話をいい味に仕立てている。時代を感じさせる衣裳や背景、競馬のシーンと見せ場も多い。たまには素直に感動に身を任せたいと思う向きにはお薦めの佳編である。

2005-08-23 23:39:09 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

エデンより彼方に


タイトルの書き文字を見ただけでため息が出た。なつかしい!そうなのだ。まだ物心つかない頃、学校から帰ってきて、テレビをつけるとブラウン管には洋画が流れていた。番組数の少ないのをカバーしていたのだろう。その頃の映画では、タイトルには流麗なカリグラフィーが使われることが多かった。今では、あまり見ることができない。古臭く感じられるからだろう。それが使われているというだけで、この映画が古き良き時代に捧げられていることが分かる。

しかも、本編が始まるとその色合いの鮮やかなこと。こんな色はふつうでは出せない。テクニカラー。当時の言い方でいえば「総天然色」である。季節を告げる黄葉、ヒロインの洋服の赤や緑と、人工的に着色した気配が濃厚な絵画のような色。どこが天然だか。

スタイリッシュな映像美に酔わせるのが目的かと思って気軽に見ていると、テーマはかなり深刻である。コネティカット州にあるスモールタウンが舞台。時は1950年代。車がクラシックで、見ているだけでよだれが出そう。タウン誌に紹介されるほどの美貌のヒロインは、当時としては最先端の家電会社重役夫人で、友だちを集めてパーティーを開くのが日常。人もうらやむ生活だったのだが……。

ヒロインを演じるのはジュリアン・ムーア。「ハンニバル・レクター」シリーズで二代目FBI捜査官を演じたあの女優である。クールな外面と、裡に秘めた激情を併せ持つ貴重なキャラクターが、この人の特徴。当然、いろんな役柄がオファーされるらしい。自分の持ち味を一つにしぼらずに何でも挑戦するところが頼もしい、注目の女優さんだ。

ファニー・フェイス流行りのハリウッドでは正統的な美女でもある。この映画の撮影中は妊娠していたらしく、ちょっと太めに見える。自慢のプロポーションは見せ場がないが、その分、衣裳は徹底的に選び抜かれて、色といい、形といい、申し分がない。まるでスタイルブックから抜け出てきたかのようだ。特に場面に合わせて赤とグリーンを使い分ける演出が見物。

隠してきた同性愛傾向に悩む夫を演じているのが、典型的なアメリカ白人男性を演じさせたら右に出る者がいないデニス・クエイド。いつもと違う抑え目の演技は必見。髪型や服装、物腰に至るまで、一見そうとは見えないが、その手の人にはきっと分かるのであろう雰囲気を醸し出して秀逸である。

夫の相手が、男性であったことに傷つきながらも何とか関係を修復しようつとめるヒロインだったが、気持ちは離れていくばかり。そんな時、父親に代わって仕事にきたインテリの黒人庭師と話が弾む。しかし、差別意識の強い田舎町のこと、美術館やレストランで黒人と親しげに話しているところを友人に見られて噂の的になる。心のつながりを求めているだけの関係だったが、親友にも理解してもらえず二人は苦境に陥る。

終幕の駅のシーンが哀切。ダンスシーン以外、それらしい関係を暗示させるシーンなど何もないのにヒロインの裡に育った感情が迸る寸前まで高まっているのが見ている者に伝わってくる。ジュリアン・ムーアならではの官能性が光る。顔の表情や手で心の奥に秘めた感情を表現できる、いい女優だ。

同性愛や人種差別に対する当時のアメリカの意識を描いて、静かな抗議の声を挙げる社会派映画のようにも見ることができるが、全体の造りから見て、50年代に活躍したメロ・ドラマの巨匠、ダグラス・サークを意識した映画と思って観るのが正しい。中年女性の心の葛藤を描いたメロ・ドラマである。カナディアン・メープルだろうか、画面を覆い尽くすばかりの美しい黄葉が、終幕では落ち葉となって街路にかさこそと音を立てるのが心にしみる。

2005-07-26 04:36:53 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

旅愁

七月に入ってから、映画専門チャンネルは、「夏の日の恋」特集。その名もずばり「避暑地の恋」、それに「旅愁」、「旅情」と避暑地での少し危ない恋愛をテーマにした映画のオン・パレードだ。夏というのは、いつになっても、人を誘惑する季節らしい。

若いトロイ・ドナヒューが可愛い「避暑地の恋」も、キャサリン・ヘプバーンの「旅情」も毎夏と言っていいほどお目にかかる映画だが、クルト・ヴァイルの「セプテンバー・ソング」をヒューチャーした『旅愁』(September Affair)は、今回はじめて見た。『第三の男』のジョセフ・コットンと『レベッカ』のジョーン・フォンテーン主演。1950年制作のモノクローム映画だ。

第二次世界大戦で、敵国であったはずのイタリーにロケして作られた映画のようだが、街角にはまだ瓦礫の後も傷ましいというのに、敗戦国を舞台に恋愛映画を撮ってしまうアメリカという国のノーテンキ具合はいっそすがすがしいくらいのものだ。戦争を通じて、ヨーロッパ文化というものを肌で知ったアメリカ人には、その姿はかえって魅力的に映ったのかも知れない。

ポンペイ、カプリ、フィレンツェと、観光案内のように映し出されるイタリアの名所は、50年も前の映像だというのに、数年前に訪れたときのたたずまいと一つも変わっていない。同じ枢軸国であった日本の変わりようと比べると、自国の文化に対する温度差に目も眩むような気さえする。

映画は、飛行機の席で隣り合った二人の男女が、トラブルで緊急着陸したナポリで、修理の時間待ちに街を見物していて乗り遅れたのをいい機会にカプリ、ポンペイへと足を伸ばすうち、惹かれ合うという話である。男は、大会社の社長で、仕事一途の人生を見直すために一人旅に出ていた。妻との離婚も考えている。女は、ピアニスト。フィレンツェにいる師匠に会いに来て帰るところ。コンサートに自信が持てないでいる。

お定まりのように、二人は恋に落ちるが男には妻子がある。別れようと思った二人に、乗るはずだった飛行機の墜落のニュースが伝わる。過去の生活に別れを告げ、フィレンツェで新しい人生を送りはじめた二人のところに、アメリカから男の妻子がやってくる。夫の生存を知った妻のとった行動は……。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が、ここでも効果的に使われている。『めぐり逢い』でも使われた悲恋のバック・ミュージックには定評のある曲である。ジョーン・フォンテーンの清楚な魅力がなんとも言えない。もう一つ驚いたのが、ジョセフ・コットンの妻を演じた知的な美女が、あの『八月の鯨』や『ドライヴィング・ミスデイジー』のジェシカ・タンディだったこと。クレジットを見ていてはじめて気がついた。面影はあるものの、全く別人の観がある。

『旅情』もそうだが、主人公たちの年代の高さにおどろかされる。立派に成人した息子を持った男が、旅先で出会った女性に一目惚れするのだ。今なら、ミドル・エイジクライシス扱いされるのだろうが、あの頃、恋愛年齢というのはかなり高かったにちがいない。責任ある大人の恋愛だけに、心の揺れ動きには切ないものがある。

青の洞窟やポンペイの遺跡。フィレンツェの風景など、モノクロームの画面に映し出される夏のイタリアの美しさに息をのんだ。恋は別にしても、あの紺碧の空には、いつかまた再会したいものだと色のない画面を見ながら、懐かしく思い出していた。

2005-07-06 22:17:12 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)





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