パブリッシャー

なんともうらやましいと人に思わせるような生活を送っている。ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』を出版した出版人(パブリッシャー)で、チャトウィンは、彼の山小屋で作品を書いたことがある。病気のときには、カート・ヴォネガットから、心のこもった手紙を何通ももらっている(この本の中に内容が紹介されている)。それだけではない。あまり好感を持ってないようだが、スノードン卿とも面識があり、マーガレット王女とも話をしている。ロートシルトの地下蔵でえり抜きのワインをねだんの心配などせずに飲みたいだけ飲むなどということもできる。

しかし、なんといってもヘミングウェイの『移動祝祭日』を皮切りに、イアン・マッキューアン、ジュリアン・バーンズ、ピンチョン、ラシュディの代表作を出版していること。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も彼が出版した。父はケストナーの出版人で、迫害を恐れて国外に出たが、国に残った伯父たち三人はナチスによって収容所に送られ殺されている。フランクフルトで行われるブックフェアには仕事上行かねばならないが、ドイツ行きには今でも抵抗がある。

これだけすぐれた出版社であっても、アメリカのランダムハウスによって買収されてしまうのは、資本のグローバル化の影響だろうが、何とも苦々しい思いが残る。その結果、皮肉なことにいまでは、彼のいたジョナサン・ケイプ社はドイツ系の出版社に転売されている。出版界の裏事情や作家たちの人となりなど、その世界にいた人しか知り得ない打ち明け話満載で、本好きにはたまらない内容になっている。

2006-12-29 17:22:44 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

久しぶりの一日読書

図書館にリクエストしていた本がたまっていて、一週間以内に引き取りに来てほしいという催促の電話がかかってきた。年の瀬が近いからか、近頃めっきり仕事が忙しくなって、なかなか本を読む時間が持てないでいる。まあ、休日はあるのだけれど、そこはそれ、ドライブとか何だとかに時間がとられていて、以前ほどは読めないのだ。

何とか都合をつけて読めるものから読み、図書館に行くと、また一冊増えて6冊になっていた。一度に借りられるのは5冊までだから、泣く泣く本を選んで帰ってきた。

土曜日の朝から、さっそく書斎にこもって本を読みはじめた。長田弘の『知恵の悲しみの時代』は、日本の近現代史の中で戦争に関連する大きな節目になった年と、その年の出版物の中からこれと思われる著者と本を選び出し、その時代とどのように向かい合っていたかを丹念に読み解くこの読書を愛する詩人ならではの労作。

正午までに読み終え、図書館に返却し、残っていた一冊を借り出し、ついでに別の本を予約すると、すでに入っているとの返事。上巻を読まねば下巻を借りることはできないので、昼食後、あわてて、『ラビリンス』の上巻を読みかかる。

これは、キリスト教の異端カタリ派と聖杯伝説を素材にした歴史ミステリといったところか。南仏カルカッソンヌを舞台にして現代と13世紀を往き来するスケールの大きいロマンスである。上下二巻の分量だが、映画を見ているようなノリで読めるので上巻は夕刻までに読み終え、また図書館に走り、上巻と交換してすでに書架にならんでいた下巻を借りてきた。

今夜は忘年会という妻を所定の場所に車で送ると、夕食をすませた後はひたすら読書。結局午後九時には読み終えることができた。その間放っておかれたニケは、今少々ご機嫌斜めでキーボードの周りを歩き回っては鼻を鳴らしている。そろそろ、ニケの相手に戻ることにしよう。

2006-12-16 23:00:32 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)

猫のシッポ

猫のシッポ
講談社
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居間のテーブルの上に、妻が図書館で借りてきた本が置いてあった。こちらを向いた猫の写真が表紙になっている。猫と目が合ってしまった。安部譲二の『猫のシッポ』という本だ。安藤組のちんぴらとJALのパーサーの二足のわらじを履いていたという変わった経歴を持つ元ボクサーの作家。代表作は『塀の中の懲りない面々』。

ぱらぱらとページを捲ってみると、すべてこれまで飼ったことのある猫の話、さすがに小説家だ。どれもなかなか読ませてくれる。雨の日に出かけた銭湯の前で、捨て猫の貰い手が見つかるまで家に帰れないでいる少女の話など、映画のワンシーンだ。迷い猫の飼い主を捜してオープンカーでご近所を走り回る話にも少女が出てくる。嫌いなのは小泉内閣の女性閣僚だが、好きなのは若い女性で、中でも少女を書くときが一番気合いが入っている。

猫語の分かる小説家は、猫との会話を翻訳してくれるのだが、どの猫もクールでカッコイイ。前足でモミモミするところや開けた布団の中に入ってくるときの仕種がニケと同じで、それだけで顔の筋肉がゆるんでくるのが分かる。カウチに寝転がって一気に読んでしまった。進駐軍相手のゲイバーで用心棒をしていた作家の喧嘩っぷりを見て、デビュー当時の三島由紀夫がボクサー志願をする話など、なかなか他では読めない。

向井敏の言った「作家はどれだけ我が身の恥が晒せるかで決まる」という言葉で、懲役中の経験を書くことを思い立ち、「塀の中」ができた。恥というなら、刑務所に入る経験はその最たるものだ。しかし、ただ恥を晒しただけでは人が読んではくれまい。人に読んでもらえる文章になるまでにはかなりの修行がいったようだ。駆け出しの作家を虐める鬼のような編集者があってのことだが、「何故そんなに虐めるのか」と訊く作家に「お前らはすぐに威張り出す。だからその前に虐めておくのだ」と言った編集者の言葉に唸ってしまった。

2005-03-24 21:39:11 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)

独り猫

会議で上役とやり合った。最近は会議とは名ばかりで、トップダウンで指令が降りてくる。下の者の考えなど誰も本気で聞こうともしない。それで、近頃では何があってもあまり本気で意見を言ったりしなくなっていたのだが、虫の居所が悪かったのか、いつもなら冗談にまぶすところをストレートに出してしまった。意見を述べよと言うから言ったまでだが、はじめに結論ありきでは、真面目に意見を出すこちらがばかに見えてくる。

相手の言うことがもっともなら、それには従うが、どうもそうは思えない。疑問点を問い質しても上役もまたその上役の言うことをそのまま繰り返して伝えているだけだから満足な解答が帰ってこないのは当然だ。頭越しにものを言っているようで徒労感がつのる。正論で相手の誤りを切って見せても「ルパン三世」の五右衛門の科白ではないが、「また、つまらぬ物を切ってしまった」という感が深い。

妻は職場の仲間との付き合いで、今夜は一人の夕食だ。風邪気味なのか、めずらしく食欲がない。妻を送った帰りにスーパーでパックの寿司を買って帰ることにした。寿司屋と鰻屋の数は全国的に見ても多い町だが、スーパーの寿司に盛り合わせ以外に上にぎりの松竹梅まで作る必要があるのかどうか。海に近い町で、ネタは新鮮。魚は結構うまいのだが、近頃では魚の脂もちょっと、という感じがしている。助六の入った盛り合わせでお茶を濁しておくことにした。

スーパーの隣に本屋がある。買い物のついでに立ち寄ってみた。夕飯前だが、けっこう混んでいる。雑誌のコーナーで立ち読みをしている客が多い。どうした訳かは知らないが、新刊本のコーナーは男性作家と女性作家で区分されている。便所や銭湯じゃあるまいし、へんな習慣だと思う。そうは思いながらも男性作家の棚の前に立ってひとわたり眺め回す。こうしていると、買いたい本はむこうから眼の中に飛びこんでくる。

矢作俊彦の『ロング・グッドバイ』が、目にとまった。新聞で広告を見たときから気になっていた本だ。薄汚れた町を彷徨う憂い顔の騎士か、相変わらずだなと苦笑しながらも棚から引き抜いてレジの前に立った。ハードボイルドの世界もすっかり変わってしまった。そんな中で、滑稽なくらい昔のままのスタイルを崩さない矢作俊彦は、評者の言う通り、パロディーのつもりなのか。それとも案外本気なのか、その辺をじっくり確かめてみたいと思った。

ひとり、手酌で冷や酒を飲みながら、パックの寿司をパクついている図というのは、傍目には哀れっぽいながめかもしれないが、当人はこれで意外に新鮮な気がしている。たまにはこういうのもいいものだ。それに、ひとりではない。魚の匂いをかぎつけたか、パックのそばでピンクの鼻をくんくんさせているニケがいる。鮭の身を少し切って掌にのせ、鼻先に突き出してみた。案の定なめてもみない。よほどうまい物でなければ、口に入れない。贅沢なやつだ。

雨の日も風の日も毎日、仕事場と家のいきかえり。サラリーマンは気楽な稼業と、昔の歌手は歌ったものだが、何十年とやっていると、そうそう気楽とばかりは言えないのが分かってくる。自分でリスクを負わない分、自分の考えを押しきることもできない仕組みだ。それに比べ、日がな一日、寝てばかりいて、こちらが与えた餌でも気に入らなければそっぽを向く。したいことはするがしたくないことは金輪際しようともしない。勝手気儘な猫の生き方は、なんて颯爽として見えることか。
「狼とはいかないまでも、せめて独り猫くらいの生き方が、してみたいものだ。」
まだ読んでもいない小説の背をながめながら、ふとそんな言葉を呟いてみた。

2004-10-25 19:42:09 | Permalink | コメント(2) | Trackback(0)

メタ読書

自分でも何がなんだか分からない狂騒にとらわれて暴れ回るニケに、一夜のうちに三度も四度も寝ているところをたたき起こされて、睡眠不足と、それから逃れるために飲む寝酒の宿酔とで、ふらふらになっていたここ数日間であった。

どうやら、その狂騒的週間も過ぎたらしく、自分でも寝たらなかったのか、ニケは一日中眠っている始末。昨夜は午前四時にそっと起こしに来たが、それまでのことを思えば、どうということはない。五時間連続して寝られれば、頭はすっきりしたもの。おかげで、仕事もはかどれば、本も読める。

どういう訳か、映画でもスポーツでもそうだが、そのもの自体よりも、それについて書かれた本というのが好きだ。それは、当然本についても言える。小説そのものより、その小説をどう読んだかということについて書かれた本の方に魅力を感じる。妙な癖だと自分でも思うが、仕方がない。

そんなわけで、最近は読書についての本を読んでいる。福田和也の『贅沢な読書』、辻原登の『熱い読書 冷たい読書』、木田元の『猿飛佐助からハイデガーへ』の三冊を立て続けに読んだ。どれも、それなりにおもしろい。しかし、福田和也は作者その人があまり好きではない。ヘミングウェイについて書かれた冒頭の一編は、楽しんで読んだが、だんだんおもしろくなくなる。竜頭蛇尾というのはこういう類のことをいうのかも知れない。

木田元先生は、前々からの御贔屓。山田風太郎や笠井潔など、思わぬところで趣味が合うのでついつい専門の哲学書まで読んでしまった。この人の『反哲学史』は傑作である。今回の本は、読書にからめて半生を語る自伝的な一冊。型破りな木田元先生ならではの武勇伝や酒を通じての交友録が楽しい。何カ国語も外国語を読むことができる特技を持つ。それが、みんな独学というのだから、一種の天才だろう。

辻原登の本については、別の場所に書いたので、ここでは詳しくは触れないが、この人の書くものなら読んでみたいと思わされる数少ない日本の作家の一人である。あえて、難を言うなら上手すぎるというところだろうか。何か書こうと思ってもほめるしかないのでは、あまりに藝がなさすぎる。そんな気にさせられる文章である。おそらく、書いては削り、書いては削りして、作り上げた文章なのだろう。自分でも書いているが、よく朗読をするらしい。語りの巧さはそのせいか。朗読に耐える文章というのが名文と呼ばれる条件だろうが、近頃とんとお目にかからなくなった。

2004-06-22 23:27:19 | Permalink | コメント(0) | Trackback(0)





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